韓国の首都ソウルの繁華街・梨泰院イテウォンで、ハロウィーン前の10月29日(土)の夜に若者を中心とした雑踏事故が起き、日本人2名を含む150人以上の死者が出ました。

ハロウィンのイラスト「かぼちゃのランタン1」 元々は海外の子どもの祭りであったハロウィーンが、日本でも若者たちの祭りのように変貌し、繁華街に繰り出す人々が増大しているのは韓国でも同じなのでしょう。当時、コロナ禍による飲食店の営業規制が緩和されたこともあり、週末もあいまって、開放感を味わう10万人以上の若者たちが、この街に押し寄せていたようです。

 二つの大通りを結ぶ幅3メートルm長さ40メートルほどの露地のような坂道(路面がこぼれたお酒で滑りやすくなっていた可能性も)。坂を上る人と下る人が殺到し、文字通り立錐の余地のないほどに密集した状況が生まれ、誰か一人がバランスを崩したことがきっかけとなり、周囲の人々が次から次へと巻き込まれて倒れ込み、転倒者がいわば雪山の雪崩のように広がる「群衆雪崩」が発生して多数の犠牲者が生まれました。

 いわゆる「将棋倒し」「ドミノ倒し」は、力が後ろから前へと一方向にかかって、次から次へと倒れていくのですが、これらは先頭部分をしっかり止めれば連鎖は止まります。しかし、「群衆雪崩」は、倒れる方向が様々で、いったん始まると転倒の連鎖を食い止めるのが極めて困難とされています。

 歴史を振り返ると、幾度となく重大な雑踏事故は発生しています。古くは、江戸期(1807〈文化4〉年8月19日)に、深川富岡八幡宮(東京都江東区)の祭礼に人が多数押し寄せ、隅田川にかかる永代橋の一部が崩落。橋の上で多数の人々が押し倒され、隅田川に転落して1000人以上の死者・行方不明者が出たといいます。

 1956(昭和31)年元日には、新潟県西蒲郡弥彦村の彌彦神社に大晦日からの「二年参り」に約3万人が訪れ、初詣の餅まきには数千の人々が殺到しました。その後の大規模な移動の中、石段付近で参拝のために拝殿に向かう人と終わって戻る人たちが交錯したために群衆が滞留して、その重さのために神社の周囲にめぐらされている玉垣が崩壊してしまい、多くの人が転落。結局、120人以上の死者が出る重大事故となりました。

 2001(平成23)年7月21日(土)には、兵庫県明石市の花火大会の折、JR神戸線朝霞駅南側の歩道橋で起きた雑踏事故で11名の死者が出ています。

 人々の心が浮き立ち、開放的な気持ちになる土曜日の夜や、大晦日から元日に変わるような特別な行事の折に、雑踏事故が起きているという特徴を見いだすことができます。

 織田信長の似顔絵イラストそして今年の11月6日(日)、岐阜県の「ぎふ信長まつり」には、俳優の「キムタク」こと木村拓哉(49)と同市出身の俳優、伊藤英明(47)が出演しての「信長公騎馬武者行列」が行われました。梨泰院事故から間もないこの時期に開催される行事であり、キムタクファンらが数多く集まることが予測されたことや、7月の安倍晋三元首相襲撃事件で警備の不備が世の指弾を受けた奈良県警のこともあり、岐阜市と岐阜県警は大規模な交通規制を敷き、群衆雪崩の回避に向けて、最大級の警備体制でその日に臨みました。

 徹底した準備の甲斐あって、幸い事故や大きなトラブルは起きませんでした。岐阜は、戦国武将の織田信長によって発展した町です。信長は、金華山の頂に立つ稲葉山城に拠点を移した時に、城下の街を中国の故事にちなんで「岐阜」と命名しました(城も岐阜城と改名)。信長が始めた「楽市・楽座」によって商業が発展し、多くの人が行き交いにぎわいました。

 時代は変わり、岐阜駅前に立つ堂々たる黄金の信長像(台座を含めると11㎡)が、今も往来を行く人々を見守っています。信長は「天下布武」の花押を用い、「武」(「戈(ホコ)」をもって争いを「止(とめる)」の意)により太平の世を願ったとされています。岐阜市で群衆雪崩が起こることなく平穏な祭りで終えられたことをきっと天空で喜んでいることでしょう。

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