- 健康医学 面白ゼミナール
- 2023.12.07
関西のとある街のアマチュア・オーケストラ団が、無事に定期演奏会を終えて、会場近くの居酒屋で打ち上げを行いました。チャイコフスキーの名曲も入れた楽曲構成が良かったのか、1000名近くのファンが聴きに来てくれ、楽団員は掘りゴタツの宴席で気分よく懇談していました。
アルコールが入れば、ある一定の時間を経ると、誰でもトイレに行きたくなるもの。70代の男性のチェロ奏者が席を立とうとしますが、テーブルに両手を突き、力を入れてもなかなかうまく立ち上がれませんでした。後方の壁面に背中を押し付け、両隣の仲間の手を借りて、ようやく掘りゴタツ席から脱却して、ホットした表情でトイレに向かいました。
しばらくすると、同じような光景があちらこちらでも見られたのです。結成の古いこの楽団のメンバーは、今となってはほとんどが中高年者となり、その上、普段から音楽をこよなく愛していることもあって、座位での生活時間が長く、運動・スポーツを習慣としている人も少ないことから、足が弱っていたのでしょう。
加えて、演奏会までの多忙な日々を経て、無事に会が成功した感慨もあり、ホッとして、おいしくお酒もいただいて、足下がやや不安定になったことが重なり、立ち上がれない人が続出となったのかもしれません。まさしく「オケ老人!」(2016年の映画のタイトル)の集団になってしまいそうです。
「老化は脚から」と昔から言いますが、脚の筋力ばかりではなく、脚に象徴されるからだ全体の運動機能と感覚機能が衰えていくことを自覚・認識して、健脚を保つことが大切です。私たちの研究グループは、歩く、またぐ、登って降りる能力を計測することによって、脚の老化度を評価することを提唱し、それを「健脚度」(公益財団法人 身体教育医学研究所/長野県東御市の登録商標)と名付けて、活用しています。
以前に比べて、歩くのが遅くなった、障害物をうまくまたぐことができなくなった、階段を降りる時に足がもつれたなどのエピソードが重なるようであれば、脚の衰えが進んでいる証です。
かつて、衆議院議長が、国会内の階段をうまく降りられなかったことを契機として、議長を辞任したということがありました。
通常国会の開会式は天皇陛下をお迎えして行われますが、天皇陛下から詔書を受け取った議長は、天皇陛下に背中を見せずに、玉座(天皇陛下が座る席)に正対したまま、後ろ向きに階段を一段降りて直立し、また一段降りて直立するというかなり難しい降り方をするのが習わしです。
昭和60(1985)年1月、通常国会開会式に向けてリハーサルを行った最中のことでした。開会式主宰者の福永健司衆議院議長(当時74歳、1988年77歳没)が、後ろ向きに階段を降りる所作の練習をしている時にグラリとよろめき、傍にいた男性スタッフに抱えるように支えてもらったのです。このことが原因で(実は、党内内部の政治的な背景もあったようですが)、翌日、議長の任を全うできないと考え、辞表を提出しました。
掘りゴタツの席から立ちあがれないことを理由に、オーケストラのメンバーから退く必要はまったくありませんが、立ち上がれなかったという事実が、脚の老化が進み転倒しやすくなっていること、ほかの日常生活の場面でもつまずいたり、すべったりして転倒する可能性が大きくなっていること、階段から転落して骨折などの大ケガをするリスクがあることを教えてくれているのです。
いわば、転倒・骨折のプレリュード(前奏曲)なのかもしれません。早めに生活習慣の改善を図って、次の定期演奏会に備えることが望まれます。
執筆者:武藤芳照
(東京健康リハビリテーション総合研究所 所長 / 東京大学名誉教授 / 医学博士)
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